夏を悩ます蚊について——そしてAさんの謎

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薬剤師 はじめちゃん

薬剤師であり、フルマラソン愛好家でもあります。 健康と運動、そしてお薬の専門知識を活かし、皆様の健康とパフォーマンス向上をサポートします。 トレーニングや栄養に関するアドバイスも可能です。 お気軽にご相談ください。

 

夏を悩ます蚊について—————そしてAさんの謎

 

 

お盆も過ぎ、日中の陽射しはまだ容赦ないのに、夜風の中にほんの少しだけ秋の匂いが混じるようになった。セミの声も心なしか控えめで、夕方にはヒグラシが鳴き、空の色は早くも夏の終わりを告げている。そんな中、季節の移ろいにまったく関心を示さず、むしろ「今こそ出番」とばかりに元気いっぱいに活動を続ける存在がいる。ぷ〜ん……と、耳の奥を直接くすぐるような、あの小さな羽音。蚊だ。

 

先日、ランニングをしていたとき、信号待ちで足を止めた。たった30秒ほどのことだったが、その間に足首を二カ所刺された。背後から例の羽音が近づいてくるのを感じた瞬間、もう遅かった。あれは不思議な音だ。音量は小さいのに、なぜか脳の中の「警戒スイッチ」だけを正確に押してくる。しかも、まるでこちらの油断を見計らったかのように現れる。

 

薬局でも時々、あの影が忍び寄る。棚から薬を取り出そうとしていると、視界の端にふっと黒い点が横切る。「来たな」と思うと、数分後には周囲を旋回しはじめるのが常だ。しかし、うちの薬局には最強の防御システムがある。Aさんだ。

Aさんが出勤している日は、蚊はなぜか全員そちらに吸い寄せられる。こちらにはまったく寄ってこない。見事なほどに、だ。まるで薬局の空間に、Aさん専用の案内板が立っているかのように。

もし携帯用のAさんがあればいいのにと、何度思ったことだろう。首からぶら下げるお守りのようにして持ち歩ければ、どこでも安心だ。もちろん、そんな失礼なことはできないし、本人も望まないだろうが。人に話すと、「虫よけスプレーすればいいじゃない」と言われるのだが、それはそれで蚊に降参した気分になる。まだ試合開始前なのに、こちらからコールド負けを宣言するようなものだ。

 

なぜAさんばかりが狙われるのか。古くから「血が甘い人は刺されやすい」と言われるが、科学的には少し違う。蚊は人間が吐き出す二酸化炭素に非常に敏感で、数メートル先からでも察知できるらしい。呼吸量が多い人、体格の大きい人、運動後で息が荒くなっている人は、それだけで空に巨大なネオンサインを掲げているようなものだ。さらに、蚊は体温にも反応する。ほんの数度高いだけで、まるで高級温泉旅館のように感じるのだという。運動直後や風呂上がりは、言わばVIPのお客様として迎え入れられるわけだ。

そして意外な要素が皮膚の常在菌である。人の皮膚には無数の菌が棲み、汗や皮脂を分解して匂いを生み出している。その匂いの成分が蚊の好みに合うかどうかで、刺されやすさは変わるらしい。Aさんの場合、おそらく天然の「蚊専用香水」を常時まとっているのだろう。 服の色も関係する。黒や紺といった濃い色は、蚊に見つかりやすい傾向があるという。背景とのコントラストや熱の吸収率が関係しているらしい。

 

もちろん、虫よけスプレーを使えばほとんどの問題は解決する。だが、私はあえて別の方法を模索してきた。蚊は飛行があまり得意ではなく、秒速12メートルほどしか出ないという。だから、微風でも進路が乱れる。扇風機や携帯型ファンを足元に置くだけで、蚊にとっては台風のような脅威になる。足首や手首を布で覆えば、物理的に刺されることを防げる。薄手のレッグカバーやアームカバーは夏場でも意外と快適だし、見た目にも涼しい白や淡い色の服を選べば、蚊にとっても発見しにくい。さらに、シトロネラやラベンダー、ミントなどの香りは蚊を遠ざけるとされており、匂いの環境を上書きしてしまうことで、蚊の嗅覚を混乱させることもできる。

中でも、もっとも単純かつ非情な手段は、周囲に自分より刺されやすい人を置くことだ。もちろん冗談だが、実際にそういう人が近くにいると、自分はほとんど刺されない。Aさんはまさにその存在であり、薬局の平和は彼女によって守られている。もしこれを商品化できれば、「キャンプ用Aさん」「庭仕事用Aさん」とシリーズ展開できそうだが、唯一の問題はAさん本人が刺されるということだ。長時間はさすがに申し訳ない。

 

夕暮れ時、川沿いを歩くと必ず聞こえるあの羽音。夏の花火やスイカの記憶とともに、子どもの頃の夕立後の匂いまで思い出す。刺されればもちろんかゆいし、掻けば腫れるし、不快極まりない。それでも、もし蚊が完全にいなくなったら、夏の風景は少しだけ変わってしまうのかもしれない。いや、やっぱりいなくていいか。

今日も私は薄い色のシャツを着て、足首を風にさらしながら走る。薬局ではAさんが黒い靴下を履き、いつもの席に座っている。蚊が現れれば、また真っ先にAさんのもとへ飛んでいくだろう。そのとき、私は心の中でそっと呟く。「ありがとう、そしてごめん。」