在宅こぼれ話⑤ 〜人生の色を取り戻してくれた一冊の本〜

薬剤師 微熱先生のプロフィール写真

薬剤師 微熱

在宅業務担当しています。音楽と自然が大好きです。好きなことには熱中するタイプで、最近ピアノを始めました。健診でコレステロール高めと指摘されるお年頃ですが自転車で毎日駆け回っております。人生の最期を迎えるその時に、「いい人生だった」と言えるように過ごしたいと思っています。



S
さんと出会ったのは、偶然のご縁でした。

 

当時の私は、仕事でも家庭でも、思うようにいかない毎日を過ごしていました。

 

仕事では、担当していた方とうまく関係を築くことができず、担当を外れることになりました。
一生懸命向き合っていたつもりだっただけに、その出来事は心に深く残りました。

 

家庭では、子どものことで悩む日々が続いていました。
親として何ができるのだろうと、自分を責めることもありました。

 

「このまま毎日を過ごしていても、何も変わらないのかもしれない。」

 

そんなふうに、少しだけ人生の色を見失っていた頃でした。

 

そんな私に、Sさんは一冊の本を手渡してくださいました。

 

「僕が書いた本です。」

 

帯には、大きくこう書かれていました。

 

Viva!定年』

 

その言葉を見た瞬間、私は驚きました。

 

定年とは、何かが終わることだと思っていた私にとって、「定年万歳!」というようなその言葉は、とても新鮮だったのです。

 

本には、60歳で退職された後、スペイン語を学ぶために留学されたSさんの歩みが綴られていました。

 

年齢を理由に諦めるのではなく、「やってみたい」という気持ちを大切にして、新しい世界へ飛び込む姿。

 

その生き方は、当時の私にはまぶしく映りました。

 

訪問のたびに、Sさんはいろいろなお話を聞かせてくださいました。

 

「知り合いにジャズを歌っている人がいるよ。」

 

その何気ない一言にも、私は心を動かされました。

 

好きなことを楽しみながら生きている人がいる。

 

人生には、こんな世界があるんだ。

 

そう思えたことを、今でも覚えています。

 

振り返ると、私の中にも「やってみたい」という気持ちはずっとありました。

 

けれど、社会人になり、結婚し、母となり、毎日の役割を果たすことに精一杯になるうちに、その気持ちは少しずつ奥へしまい込まれていました。

 

自分が本当に何をしたいのかさえ、分からなくなっていたのです。

 

Sさんは、そんな私に「人生は、何歳からでも楽しめる」ということを教えてくださいました。

 

今の私は、畑を始め、地域の方と野菜を通じて交流し、マラソンやピアノにも挑戦しています。

 

昔の私には想像もできなかった毎日です。

 

そして、一歩踏み出した今だからこそ分かったことがあります。

 

やりたいことを実現する道は、決して華やかなことばかりではありません。

 

時間もお金もかかります。

 

思うように理解してもらえないこともあります。

 

頑張っても評価されず、悔しい思いをすることもあります。

 

それでも、少しずつ続けていくことで、理解してくれる仲間と出会い、景色は少しずつ変わっていきます。

 

その積み重ねこそが、人生を豊かにしてくれるのだと感じています。

 

だから今は思います。

 

きっとSさんも、私には見えないたくさんの努力や葛藤を重ね、その先にあの一冊を書かれたのだろう、と。

 

今、90歳を超えたSさんは、思うように体が動かず、もどかしい日もあるかもしれません。

 

それでも、Sさんが歩んできた人生や、何気なく話してくださった言葉は、確かに私の中で生き続けています。

 

私は今、自分の楽しみを見つけ、それを周りの人と分かち合えるようになりました。

 

その始まりは、あの日いただいた一冊の本でした。

 

Sさんが見せてくださった「人生を楽しむ姿」が、私の背中を押してくれました。

 

人生の色を失いかけていた私に、もう一度その色を取り戻してくださって、本当にありがとうございました。

 

これからは私も、Sさんからいただいた「人生を楽しむ力」を胸に、誰かの心に小さな明かりを灯せる人でありたいと思います。